しすぷりファンダメンタリズム宣言
特に断っておきますが、文責はサイト管理者Shanghai亭にあります。

1.シスプリは唯一であり、その他にシスプリはない。…とまでは言いません。

 当サイトは、天広直人氏の、および公野櫻子女史の手になるテキストのみをシスプリの「原作」と認める、シスプリ原理主義の立場をとる。

 というより、原作は非常に計算された曖昧さを留めて記述されており、それ以上具体的な設定を詰めたり、あるいは全く別の設定を作ろうとしたりすると無理が生じるのは必定。ハッキリ言えばゲームが前者、アニメが後者である。
 それらの矛盾を孕まないギリギリの範囲の曖昧さがシスプリの原作と呼べる部分なのである。

 ただ、別に私のいう「原作」以外のものを否定しようというつもりはない(アニメ版はなかったことにしたいと少し思わなくもないですが)。一言でいってしまえば、少なくとも当サイト内で設定について議論する際、原作以外のものを根拠として持ち出したくないだけである。いや、無論、全てのメディア、全ての設定は検討に値するが、所与のものとするのは原作だけ。文字通りのFundamentalismである。
 そのために、原作の正統性がどこまでに及ぶかを規定しておきたい。

2.燦緒へ。

 まず、これはもうお話にもならないアニメ版からぶった斬る
 第一話の時点で主人公である兄と妹たちは一面識もなく、なぜ会ったこともないどころかいることすら知らなかった妹が12人も出てきたのかは何も説明されないまま(つーか最後まで説明されない同居生活が始まってしまう。
 いきなり結論になってしまうが、シスプリの設定のは、「今は別々に暮らしている」こと、かつ「昔(妹の幼い頃)は一緒に住んでいた」こと、この2点である。兄妹として生まれ育った体験は与えられていながら、年頃になった今は離ればなれ。この、妹との絶妙な距離感がシスプリならではの魅力ではないのか。少なくとも、原作の語り口においては間違いなくそうだ。
※ ただし、海外から帰国という形で遅れて登場した春歌、四葉、亞里亞の3人においてはこの限りではなく、まだ見ぬ兄を慕っていたという基本設定がこの3人のエキセントリックなキャラクターに少なからず影響している点は見逃せない。閑話休題。
 そして言うまでもなく、アニメ版の設定はこの2点二つながら無視しているのである。というよりまるで意識したかのように正反対の設定に変わっている。
 では「シスプリをメジャーに押し上げるためにあのアニメの設定が必要だった」という議論が成立するだろうか。答えはである。このことは誰もが認めるだろう。事実、アニメ版はドラマとしては最悪の出来で、結末も破綻しており、要するにあの設定の必然性は皆無だった。ただスタッフが原作の本質を理解していないがために安易な変更を行ったのだと断定できる。
 劇中において、舞台であるプロミストアイランドそのものが海神家(主人公の父親)によって用意された環境であることが示唆されている。つまり主人公・航を取り巻く環境全体が箱庭であるという仕掛けで、そこでは当然、妹たちとの関係もフィクションである、と見るのがむしろ自然だろう。まるでシスプリそのものを象徴するかのような悪意に満ちた設定に見えるが、果たしてスタッフがそれを意図して作っていたかは甚だ疑問である。
 しかし、これも言っておかねばなるまいが、私を含めた多くのファンがこのアニメの異常さを積極的に楽しんでいたのは事実である。その話題性においてシスプリの覇業に貢献があったことは認めざるを得ない。

3.ある日突然、9人の妹が12人に増えたらあなたはどうしますか?

 一方、原作とゲーム版との関係はもう少し複雑である。
 ゲームの製作母体は電撃G’sマガジンの発行元でもある本家メディアワークスであり、ゲーム化に際して新たに3人の妹が登場する(実際には先に誌上に登場)など、原作にあたるG’sマガジンの企画とも確実に連動していた。ちなみに、原作者である公野櫻子女史は、ゲームにはシナリオ原案としてクレジットされている。
 ゲームの最も画期的だった点は、12人の妹全員が同時に登場するシステムであろう。一見あたりまえのようだが、それまで原作においては、「1人の妹を選ぶ」ことをまず何より強調しており、(本編以外のイラストに一緒に描かれることはあっても)テキストに登場する妹は厳密に一度につき1人。会話の中で他の妹に言及されることすら一切なかった。
 つまり、それまで兄と妹、一対一の関係性のみで成立していたシスプリが、この時点で初めて一つの作品世界を形成したことになる。これを敢えてやっちまったのはゲーム版が最初であったことに注意されたい。
※ ただメディアの違いで描かれていなかったのではなく、原作では意図的に描写を避けていた、という事実は認識しておく必要がある。実は原作で複数の妹が同時に登場し会話するのが見られるのは、ゲームより後の、第三期の連載からなのである。それまで避けて通ってはきたが、ゲームでやっちまった以上は年貢の納め時と覚悟を決め開き直ったということだろう。
 これは厳密には変更でも矛盾でもなく、これまで描かれなかった部分をはじめて具体的に見せただけである。
 これがゲーム製作にあたっての基本的な姿勢であり、雑誌連載からゲームへと器を移すに際し、新たに具体的な設定が必要な部分を補っただけで、原作設定の意図的な変更や不必要な新規設定の追加などは行われていない。「血縁度」のパラメータ変化によりゲームの展開に伴って血縁関係の設定が変化するというゲーム史上空前絶後のアクロバティックなシステムを導入したのも、原作では意図的に血縁関係が不明とされていたためである。
 しかしそれでも、舞台設定が具体化したことで、当然、これまで曖昧にしていた部分がどうしても窮屈になってくる。たとえば主人公を高校生にしたことで、シスプリの設定で最も微妙な部分である妹たちの年齢にしわ寄せがきた。
 もちろん、原作に設定がない以上、ゲームでも妹たちの年齢について具体的な言及は一切ない。学校も単に「学校」とだけ言って可能な限りぼかしてある。しかし、当然ながらごまかすにも限度があって卒業式のイベントがある咲耶は明らかに中学3年生だし、最年少であるはずの雛子も「学芸会」に出ているということはどうやら就学児童であると思われる。ということはだいたい6歳から15歳くらいまでの間に12人…?と突き詰めて考えていくとだんだん怪しくなってくる(笑)。この問題はいずれ別稿で徹底的に論じたい。(参考資料)
 ところで、ゲーム版のコピーは「ある日突然、12人の妹ができたらあなたはどうしますか?」というもので、これが誤解の元である。すでに述べた通り、ある日突然12人の妹ができるのはアニメ版であって、ゲーム版の設定に従っていえば、正しくは「ある日突然、9人の妹が12人に増えたらあなたはどうしますか?」だ。どうしますか、ってそりゃどうしようもないだろ。
 上記のコピーはゲームの主人公の境遇ではなく妹のいないプレイヤーに対するものとも考えられなくはないが、ライターの無自覚によると見る方が自然である。つまり作ってる方も意外とこのへんをよく考えてないようだ。

4.はじめに絵とテキストありき。

 まず最初はテキスト、それから声優による音声がつき、ゲームで一貫したストーリーが語られ、アニメで映像が動いた、という具合に、情報量の増大に伴ってシスプリがメジャーの座(?)にのし上がっていった経緯が説明できる。ところが、これは必ずしもユーザーの質的向上を意味するわけではない。逆に、初期のシスプリの方がより成熟した受け手を要求していたと言える。
 与えられる情報量が増大すれば、受け手の想像に委ねられる部分が少なくなる。この過程で、人気が千影から咲耶に移っていったという事実は、実は極めて象徴的である。敢えていうなれば玄人好み千影から初心者向け咲耶に、であり、これはシスプリファン層の拡大が、実質的にはライトユーザーの量的拡大であったことを意味している。逆に言えば、千影ほどマニアックで難しいキャラを1位に祭り上げていた初期のファンはいかに全体のレベルが高かったかがうかがえる。母集団が電撃G’sマガジン読者であればそれも驚くにあたらないのかもしれないが。
 しかし、敢えて言えばピラミッドの底辺にいるライトユーザーが量的には圧倒的多数を占める以上、人気投票という直接民主制を敷くこと自体にそろそろ限界が来ているのかもしれない。とはいえ、電撃G’sマガジン誌上における一般人気投票では、同誌の表紙に登場したキャラがその直後確実にジャンプアップするなど、最近はかなり順位も流動的でかつ変動も大きい傾向にある。これを見る限りでは、シスプリのキャラ人気もかなり成熟した健全な市場になりつつあると判断できる。ただし、これはあくまで電撃G’sマガジン誌上における美少女キャラ全般の人気ランキングであり、標本そのものが偏っている可能性も考慮する必要があるだろう。
※ 現にアニメDVDの付属フィギュアオーディションにおいて千影が漏れていたのは、素直に受け取れば千影が7位より下(!)だったことを意味している。G’sマガジン誌上ではまだまだ安定してベスト3圏内は維持している千影だが、一般の(つまりアニメベースでの)人気は意外に大きく低下しているのかもしれない。そりゃあのアニメの扱いで人気出るわけねえよな…。個人的には複雑な気分。

5.シスプリはギャルゲー界のガンダムである(ウソ)

 喩えるならば、本物のガンダムは富野由悠季にしか作れないのと同様、シスプリの本質は公野櫻子にしか表現できないのである。もちろん、絵柄だけでなく性格も含めたキャラクター造形に与るところの大きいキャラクターデザイン天広直人もないがしろにできない。さしずめ安彦良和といったところか。これらに倣ってガンダムに置き換えると、TVアニメ版シスプリは『機動武闘伝Gガンダム』みたいなもんだ。Gシスプリ
 だから、「シスプリはアニメしか知らない」というのは「今までガンダムって知らなかったんですけど『Gガンダム』でハマりました!いや〜ガンダムって面白いですよね!」というのと同義であり、そういう人がシスプリファンの大半を占めるようになっていく過程を手をつかねて見ているしかなかった私の気持ちも少しは察してほしいところである。
 ただ、Gガンダム自体はいい作品だったのであのシスプリアニメに喩えるのは申し訳ない気もする。そこで、「つまらない」「監督が途中で交代」「原作の設定まで台無しにした」など多くの共通点を持つ『MS第08小隊』である、と言いたいが、残念ながら比喩としてはあまり分かりやすくないかもしれない。

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